インテルのサウンドロゴ「bong」や、ティファニー製品の箱に使用される青色 (Tiffany Blue) のように、音や色にも 商標 保護が及ぶようになったのは、20世紀も半ばになってからのことです。それ以前の保護対象は、ロゴや文字に限られていました。インドは今回、視覚や聴覚よりもさらに捉えにくい感覚、すなわち嗅覚を保護対象として認識する国々の仲間入りを果たしたことになります。
インドでは2025年11月、日本の住友ゴム工業が申請していた、「[引用者補足: タイヤ] に付けられた、バラを連想させる花の香り」と表現される「匂い」に関する商標が承認されました。この動きから、これまでとは異なる新しいタイプの商標との関係性において、インドの商標法に生じた明確な変化を感じ取ることができます。
嗅覚を商標登録する鍵は、特徴的かつ非機能的な「匂い」
消費者にとって、匂いは、視覚や聴覚の情報よりも長く記憶され、心に残ることが多いものです。さらに、嗅覚情報は一時的なものでありながらも特異性があり、特定の製品や農産物に固有の性質でもあります。でも、なぜここにタイヤが関係してくるのでしょうか。
タイヤにバラの香りを染み込ませるのは一見理解し難いことのように思えます。バラの赤い花びらとゴムとの間には、自然なつながりが何もないからです。しかし、匂いが商標として法的に承認されるならば、まさにこの理由から、商品に対する強い識別力を持つことになるかもしれないのです。チーズやお茶などのように、商品の利用、あるいは商品の品質に付随して発生する匂いは、機能的な特徴といえるので、保護対象とはなりません。しかし、バラの香りがするタイヤならばどうでしょうか。この場合、香りは単にブランドを識別する役割を果たしているに過ぎません。
しかしながら、匂いを図形的かつ客観的に表現することは困難で、匂いをどのように保護するかは、世界の商標制度にとって大きな課題となってきました。インドの1999年商標法においては、匂いを図形的に表現した場合、商標保護の対象となる可能性は明示的には排除されていません。それでも、2025年11月より以前に、インドにおいて「匂いの商標」の登録が認められたことはありませんでした。
匂いの商標を図形的に表現する7D嗅覚ベクトル
住友ゴムが出願したバラの香りのタイヤ (商標ジャーナル第2236号、出願番号5860303、第12類) は、商標保護の世界で前例がないわけではありません。英国では、同社の匂いの商標が1996年に登録されています。今回、インドにおいて識別性と非機能性の議論を展開するに当たり、英国で既に商標が保護されているという事実は、説得力のある前例として、同社の主張を裏付けるものとなりました。ただし、インドの商標制度で求められている図形での表示要件を満たすために、特別に対処する必要がありました。
今回の住友ゴムのケースは、2002年に欧州司法裁判所 (ECJ) が判断を下した「 Ralf Sieckmann対ドイツ特許商標庁事件 」の判決において明確化された原則に立脚し、この原則が取り込まれています。同判決では、視覚的に認識できないサインは、「明確、正確、自己充足的、入手容易、理解容易、耐久的で、かつ客観的 (clear、precise、self-contained、easily accessible、intelligible、durable and objective)」な方法で表現すべきことを規定しています。
匂いの商標を取得するに当たり、化学式、匂いのサンプルまたは書面による説明を提出するだけでは、図形で表示するという要件を満たすことにはなりません。
インドの場合、このことは、言葉で匂いを説明するだけでは不十分で、化学式やサンプルのみでは明確性と客観性の基準を満たし得ないということを意味していました。つまり、「科学的に測定可能」なことと「法的に理解できる」こととを橋渡しするような図形化が求められていたのです。
この事案で特に注目すべきポイントは、法的推論と、特徴の科学的な記述とを融合させたところにありました。同社は、審理の過程で、インド情報技術大学アラハバード校が作成した包括的な説明図を提示しました。
数学的ベクトル図によって、香りを花、フルーツ、木、ナッツ、ツンとくる (pungent)、甘い、ミントの7つの基本座標にマッピングできるようにしました。このように、主観的な経験を客観的な測定値に置き換えることにより、「明確、正確、客観的」であることが立証されました。法律と科学との融合を通じて、インドにおける法的要件を満たすことができたのです。
科学の力でブランドの香りを商標化
香りというのは、本来的に、長持ちする属性ではありません。このような属性であってもインドの商標法の要件を満たすことができるように、住友ゴムおよび同社に協力する専門家は、図形的表現を超えて、多層的に証拠を示していく戦略を採用しました。
同社は、ガスクロマトグラフィーや質量分析などの分析技術を活用して、タイヤに塗布したバラの香りの分子フィンガープリントを定義し、これを識別できるよう、再現性のある客観的な根拠を提出しました。
香りと嗅覚のスペシャリストからは、タイヤの香りの独自性と非機能性を証する宣誓陳述書が提出されました。それは、この香りの機能が、タイヤの性能特性を示すことにあるのではなく、ブランドの識別にあることを明らかにするものでした。
また、この香りが製品のライフサイクルを通じて安定し、一貫して感知することができるという証拠により、商標要素としての信頼性が裏付けられました。
同社が講じた統合的なアプローチの意義は、公式な基準に適合できたことにとどまりません。非伝統的な商標を申請するに当たり、インド国内外の組織が、どのようにすれば法律専門家、技術者および当該分野を専門とする科学者の力を結集できるかを示す模範ともなったのです。
「匂いの商標」の先例に
世界各国で、嗅覚の商標登録は、範囲は限定的とはいえ、戦略的には重要なポジションを占めています。英国が住友ゴムに対して匂いの商標保護を承認し、国際的な動きに先鞭をつけたのは1996年のことですが、その後の各国のスタンスはさまざまでした。
EUでは、Sieckmann事件を経た現在でも、匂いに関する商標を登録することはできません。 欧州連合知的財産庁 (EUIPO) の最新のガイドライン においては、嗅覚や味覚に関する商標の登録は現時点では容認し得ないと考えられています。これは、現在の「一般に利用可能な技術 (generally available technology)」の下では、このような種類の商標をSieckmann事件で示された基準に従って表現することは可能ではないと想定されているからです。
米国特許商標庁 (USPTO) は香りの商標を認めていますが、消費者が独自性について認識していることの証明と、非機能性に関する厳格な審査が要求されます。
バラの香りを塗布した住友ゴムのタイヤを承認したことで、インドは、出願が明確性、客観性、厳格な証拠という高度な基準を満たす限りにおいて嗅覚の商標登録が認められる国 (法域) の1つとなりました。こうして、インドはこのような世界的な枠組みの仲間入りを果たしたのです。
政策立案者やビジネスリーダーにとって、この進展は、単なる1つの商標を超える意味を持つものです。今回のケースから、世界各国に適用できる戦略的意義を導き出すことができます。
それは手始めに、感覚的な商標のための公式なガイドラインを導入することです。匂いを商標登録するに当たり、明確な審査基準やチェックリスト、標準運用手順の策定が重要であることが、住友ゴムの事案によって明らかになりました。これらが満たされることで、イノベーターが直面する不確実性が低減し、審査官の主観に左右されることが少なくなるかもしれません。
それとともに、科学と知財との健全な結合が必要であることも分かってきます。同社にとって、高度な分析、電子嗅覚システム、AIによる香りの描出は不可欠な存在です。このことは、製品の設計と同じくらいに、ブランドの保護までもが科学的インフラに下支えされる未来像を予見させるものです。
制度の執行をより徹底することと、偽造防止対策を講じることも不可欠です。商標登録された香りは、マーケットで識別力のあるシグナルを発する機能と、制度執行の手段としての機能の双方を持ち合わせています。そして、ブランドの持つ感覚的な個性を模倣しようとする偽造者に対する抑止力としての役割を果たします。
インドの「Viksit Bharat」目標と、世界市場を見据えた香りのブランド化の拡大
インド政府が掲げる「Viksit Bharat」は、独立100周年を迎える2047年までに自立・繁栄した国への転換を果たすという目標です。こうした事情も相まって、特にインドでは、住友ゴムの事例から、知財、イノベーション、ブランディングをこの目標に整合させるという、壮大なビジョンが想起されます。
このような展開を通じて、インド企業がブランディングを強化していくための環境も整備されます。インド企業は、特に繊維、食品、接客、モビリティ、ウェルネスの分野において、他とは一線を画すような感覚体験と、慎重に検討された知財戦略とを結合させることにより、香りによる差別化を実現し、競争優位性を大幅に強化することができるかもしれません。バラの香りを塗布した住友ゴム製のタイヤが受け入れられたのは、例外的な事例というよりは概念実証 (実現可能性の検証) であると考えるのが一番理解しやすいでしょう。今回の事例から、ブランディング戦略における創造性と、科学面や法律面での盤石な準備態勢の双方が整った状況であれば、最先端を行く非伝統的な商標の申請に対しても、インドの制度が応えられることが実証されたといえます。
これを実用の場に適応させていくには、規制当局、専門家、イノベーションそれぞれのエコシステムが足並みを揃えて進化していかねばなりません。すなわち、商標の認可当局は今回の事案を前例として判断を下すよう求められ、知財の実務家、ブランド戦略の立案者や科学者は体系的な協力関係を築いていく必要があります。また、企業に対しては、市場開拓戦略と国際化戦略の一環として、感覚的な知的財産を有効活用するよう奨励すべきです。
このように共存関係にあるエコシステムが連携することによって、インドも、その他の国々も、「匂いの商標」を単に法的に「珍奇な存在」としてではなく、価値の創造、輸出競争力の強化、文化的差別化を図るために有効な手段として活用できるようになるのです。
著者について
Unnat P Pandit氏は、ニューデリーのジャワハルラール・ネルー大学教授として、知的財産、イノベーション、起業家精神の分野で教鞭を執る傍ら、現在はインド政府特許意匠商標総局長官 (Controller General of Patents, Designs and Trademarks) および著作権・地理的表示登録官 (Registrar of Copyrights and Geographical Indications) を務めています。