国際クリケット評議会 (ICC) 女子ワールドカップ2025において、インドの女子クリケットチームが初優勝を飾ったことは、このスポーツにとってすばらしい快挙といっても過言ではないできごとでした。試合が開催されたナビムンバイのDYパティル・スタジアムから響き渡ったのは、文化的な栄光を讃える歓声だったのです。
同チームが新たな世界チャンピオンの座に就くと、これと並行して、ある動きがソーシャルメディア上にみられるようになりました。それは、こうした国民的な誇りにあやかって、チームの勝利を「モーメントマーケティング」のチャンスとして利用しようと目論む事業者 (ブランド) や法人組織です。その手段は、生成AIツールを活用して祝賀の投稿を作成するというものでした。
モーメントマーケティングというのは、リアルタイムのできごとやファンの自発的なエネルギーに便乗して、文化的にヒットしそうなコンテンツを作成する戦略のことです。ICCワールドカップでの優勝を受けて、いくつかの祝賀画像が爆発的に拡散したのもその一例といえます。こうした画像のなかには、チームのキャプテンであるHarmanpreet Kaur (ハルマンプリート・カウル) 選手がベッドの上で自分の横にトロフィーを置いて眠っている写真もありました。マーケティング自体はまがい物ではありませんでしたが、その写真はAIにより生成された画像でした。
ディープフェイクによるインド人クリケット選手の人格権やパブリシティ権に対する侵害の現状
マカフィー社が2024年に公表したレポートによると、悪意のある不正者がビジネス、政治、エンターテインメント、スポーツなどの分野で、消費者や著名人になりすますというディープフェイクがインドで急増しているとのことです。
今日のように、すべてがデジタルで接続される世界においては、多くの人々がこのような虚偽情報の影響を受けやすくなっており、ディープフェイクコンテンツを、その出所を確認することなく、知らず知らずのうちに、ソーシャルメディアにリポストしています。
インドの女子クリケットチームに係る投稿は愛国的ともいえそうな内容ではあったものの、ここからは、法制度面での不備がはからずも露呈してしまいました。それは、合成画像や動画が氾濫する今日において、女性アスリートの人格に対する保護が、商業的にも個人的にも心許ない状況にあるということでした。
あるブランドや企業が、生成AIを利用して、ある選手を対象とする再現性の高い画像を作成する場合、それは単なる創造的表現の範疇にとどまるものではありません。その選手の人格権や、選手が正当なスポンサーとの間で契約した販売独占権を、当人の同意なくして侵害する行為に該当します。
ディープフェイク時代におけるクリケット関連の祝賀行事に絡むアンブッシュマーケティング
スポーツにおいて、ブランドや企業が公式スポンサーシップを締結するには、多額のライセンス料を必要とします。これを回避するために用いられてきたのが、アンブッシュマーケティングやモーメントマーケティングといった手法でした。今回のディープフェイク画像は、こうした旧来の手法が飛躍したものでした。
ブランドや企業は、ネットで話題となったイベントを乗っ取ることで、個別にスポンサー料を支払うことなく、あるチームの成功にあたかも関係しているかのような強烈なイメージを瞬時に作り上げます。
AIを活用するモーメントマーケティングが主流になったことで、特に女性アスリートは深刻な影響を受けています
今日では、特定の瞬間をプロンプトに取り込み、これを生成AIモデルに入力すれば、本物と見分けがつかない合成画像を即座に作成することができます。そうすることで、公式ライセンスを許諾されたキャンペーンの開始を待たずして視聴者の注目を集めることが可能になります。つまるところ、モーメントマーケティングの実効性を大きく高めることができるスピード重視が、他方で、アスリートから正当な収益化の機会を奪っていることになるわけです。
アスリートの人格の保護を巡る戦いは、インドでは目新しい問題ではありませんが、生成AIの利用拡大によって、本質的な変化が生じています。
かつて、PV Sindhu (シンドゥ・プサルラ) やManu Bhaker (マヌ・バケル) のようなアスリートが直面した問題といえば、主として、ソーシャルメディア上での肖像の無断使用であり、その被害はスポンサー料の逸失に加え、自身の尊厳や自律性の侵害にも及ぶものでした。
女性クリケット選手の名前、画像、肖像をディープフェイクから保護する
「ブランドは、いかなる者の名前や画像、肖像も、本人の同意なしに使うことはできません」--スポーツマーケティング、エンターテインメント、ブランドライセンシングを手がけるBaseline Ventures社でタレント・パートナーシップ担当ディレクターを務めるYashwanth Biyyala氏は2021年、Hindu Business Lineに対してこのように語っています。
さらに、「こうしたブランドのなかには、事業提携を巡る協議にこれまで見向きもしなかったにもかかわらず、今になって突然、ソーシャルメディアへの投稿を通じて祝福するという名目で、シンドゥ選手の栄光に乗っかろうとするものもあります」とも指摘しています。
この件に関しては、当事者間での和解成立も影響しているのかもしれませんが、メディアの関心からは消え去りました。しかし、トップクラスの女性アスリートが、自身の肖像の無断使用に対する保護を求めて法的手段に訴えたのは、これが初めてのことでした。
生成AIの利用拡大に伴い、アスリートが有している自分らしさを保つ権利や真実を体現する権利が侵害されています。
アスリートは、卓抜した身体能力を紛れもなく有していること、そしてその能力を実証できることを通じて、プロとしての実力をアピールします。合成されたまがい物の横行は、こうした信頼性を脅かします。AIで作成した「デジタル版」のクリケット選手は、現実世界において選手が自身の姿をコントロールする権利を歪めるものです。
AIの利用に伴う状況の変化は、とりわけ女性アスリートに大きな影響をもたらしています。男性アスリートに対する知的財産権の侵害は、多くの場合、商業的な模倣という形で行われます。一方、女性アスリートに対しては、AIによる容姿の美化や同意なしに行う性的対象化といった被害が頻発しています。さらには、ディープフェイクコンテンツによって、プロ意識の欠如を疑われたり、体面を傷つけられたりする状況に追い込まれることもあります。
インドの裁判所が、個人の尊厳を保護する観点から、AIによるディープフェイクを違法とする判断
インドの裁判では、知的財産権とインド憲法第21条に規定される尊厳をもって生存する権利とを関連づけることによって、このような制度上の不備を解消しようとする動きがみられるようになりました。こうした動向に関する重要な先例として、ボリウッド女優Kajol Vishal Devgan氏の事件に関してデリー高等裁判所が2026年2月に下した命令を挙げることができます。
裁判では、生成AIによるディープフェイクは、人格権だけでなく、尊厳をもって生きるという基本的権利をも侵害するとの判断が下されました。この事件では、無許可でのグッズ販売から、その女優になりすました下品なAIチャットボットまで、あらゆるものが対象となりました。
インドには、人格権を保護するための独自の仕組みが存在しません。ですから、インドでは通常、個人の人格権を保護する役割を裁判所が担ってきたという事実を認識しておくことが重要です。
こうした保護は、憲法による救済措置からコモンローの原則まで、さまざまな法的手段を総動員することで実行されてきました。インドの学説では、保護が及ぶ範囲とその限界を理解するに当たり、「広範に熟慮し協議すること」が重視されています。世界中を見渡せば、このことは一層重要になります。なぜなら、この問題への法的対応については各国の足並みが揃っておらず、統一を欠いた状況が生まれつつあるからです。
WPLの成長: 女子クリケット選手にとってのもう1つの側面
こうした法的保護の重要性は、インドの女子クリケット競技が、興行として爆発的な成長を遂げたことからも裏づけられます。
同国の女子プレミアリーグ (WPL) のフランチャイズ権は、史上最高額となる466億9,990万インドルピー (4億8,500万米ドル) で2023年に売却されていますが、その結果、世界で最も価値のあるクリケット関連資産の仲間入りを果たすことになりました。
この金額には、アダニ・グループによるグジャラート・ジャイアンツの買収 (128億9,000万ルピー、1億3,100万米ドル) や、リライアンス・インダストリーズによるムンバイ・インディアンスの買収 (91億2,990万ルピー、9,200万米ドル) など、個別に行われた巨額投資案件が含まれています。
しかしながら、このようなフランチャイズの評価額と個々の選手が手にする収入との間には、依然として商業的に大きな落差が存在します。
例えば、WPL2026のメガオークションでは、Smriti Mandhana (スムリティ・マンダナ) 選手が3,400万ルピー (34万6,791米ドル) で引き続き最高額プレーヤーとなった一方、多くのインド人選手が手にした金額はわずか100万ルピー (1万米ドル) に過ぎませんでした。
このような経済的格差の結果、女性アスリートは非常に弱い立場に置かれています。というのは、多くのアスリートにとって、自身のブランドバリューこそが最も重要な長期的資産だからです。ブランドが、生成AIを利用して、対価を払うことなくアスリートの肖像を悪用しているとすれば、それは、アスリートたちが持続可能なキャリアを築いていくために必要とする資産を奪っていることになるのです。
最近発生した人格侵害の事件で、法的対応まで発展したものはありません。このことから、業界の重鎮の間には、旧来の人格権では経済的なメリットが小さいので、たとえ人格の侵害を受けたと認識されたとしても、訴訟に持ち込まれるほどの強い動機づけとはならないだろうとの読みがあるのかもしれません。
しかし、生成AIツールの急成長は、このような「計算」に変化をもたらす可能性があります。今回の事件は、こうしたツールがインドにおいて広範囲にわたって、自由に、迅速かつ容易に合成画像の作成に使用されていることを示すケースとして、初めて注目を集めました。
このような事態の進展は、生成AIの利用や人格権の問題のみならず、集団的権利についても、より深く考察し議論するよう私たちに迫っているのです。
About the authors
Tania Sebastian博士は、ベロール工科大学法学部助教で、学術、研究、実践の分野で17年の法律実務経験があります。特にグローバルサウスにおける公衆衛生向上の視点から、法律とイノベーションとの接点を探求してきました。現在は、インド人女性が、過去から今日に至るまでのさまざまな状況において、革新的・創造的な分野で果たしてきた役割をたどる研究を続けています。
Saraswathy Vaidyanathan氏は、インドのBMLムンジャル大学法学部助教で、知的財産と人工知能が現代社会の形成にどのように影響しているかを研究テーマにしています。技術政策に関する学際的な講座を担当する傍ら、ディープフェイクやデジタル権に関する評論を主要な国際論説メディアに寄稿しています。インドと英国で法学の高等学位を取得し、発展途上国全体を対象として、破壊的なイノベーションがプライバシー、ヘルスケア、ジェンダー公正にどのように影響しているかをテーマに研究を行っています。
WIPO Conversation (WIPO対話) では、合成メディア、AI、メタバースなどの新興技術をテーマに、知財と最先端技術との関わりについて、より詳細な情報を取り上げています。
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