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AIボイスクローニング: ボリウッドのベテランシンガーが確立した画期的な判例

著者: Dipak G. Parmar氏 (知的財産弁護士、インド)

2025/05/20

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プレイバックシンガーのArijit Singh氏は、Spotifyで最も多くのフォロワー数を獲得しているアーティストです。そのボーカルのクローンについて争われた事件を通じて、人工知能 (AI)、知的財産 (IP) と人格権を巡る懸念の高まりが浮き彫りにされました。

ボリウッドで、男性ボーカリストとして最も人気があるのはプレイバックシンガーです。そのボーカルはどんな映画俳優にもフィットしますが、自分自身がスクリーンに登場することはありません。Arijit Singh氏は、この慣習を打ち破った数少ないボーカリストの1人です。

2025年3月時点において、Singh氏のSpotifyフォロワー数は1億3,850万人と、Taylor Swift氏の1億3,300万人を上回って世界最大です。ストリーミング数でみれば、Swift氏がトップ10圏内を維持しているのに対し、Singh氏は70位です。ただし、ソロアーティストとしての人気が高まるにつれ、人工知能 (AI) を活用して同氏の声を再現しようとする会社が出現し、新たな脅威となっています。

Singh氏は2024年、このような会社を相手取って訴訟を起こし、勝訴しました (Arijit Singh氏対Codible Ventures社事件)。これは、音楽を取り巻く生成AIツールの不適切な利用と知的財産 (IP) を巡ってインドで初めて提起された事件ですが、AI時代の人格権に関する法律判断の先例となりうる画期的な判決となりました。また、この判決では、生成AIの進歩によって従前からのアイデンティティと著作権に関する規範が揺らぐなかで、技術革新と人格権との緊張が高まっていることも浮き彫りにされました。

Arijit Singh氏対Codible Ventures社事件

ところで、事件の概要はどのようなものだったのでしょうか。Singh氏側は、被告であるCodible Ventures社側が、自分の声の人工録音 (スタジオなどの人工的な環境で録音した音声) を、AIツールを利用して合成したと主張しました。これは、「ボイスクローニング」として知られる手法です。加えて、同氏の肖像を自らのバーチャルイベントの広告に使用し、同氏があたかもこのイベントを公認し、そこでパフォーマンスしたかのような印象を与えたこと、そして、同氏の名前と肖像を冠したさまざまなグッズを無断で作成したことも主張しました。

「裁判官の良心に最も強く響いたのは、有名人が、いとも簡単に、無断作成された生成AIコンテンツの標的にされてしまうという事実でした」

裁判では、Singh氏の名前、声、画像、肖像、人格 (ペルソナ) などの特徴が、人格権とパブリシティ権の下に保護されることが認定されました。また、この新しい技術によって権利が不当に利用される可能性があることに、特に懸念が示されました。

ボンベイ高等裁判所のR.I. Chagla判事は、「裁判官の良心に最も強く響いたのは、有名人が、特に本件原告のようなパフォーマーが、いとも簡単に、無断作成された生成AIコンテンツの標的にされてしまうという事実でした」と述べています。

今回の判決は、インドで最も親しまれている1人のシンガーの権利を保護するだけでなく、そのペルソナの乱用が絶えないAIの時代を生き抜いていかねばならない世界中のクリエイターにとって重要な原点の役割も果たすものです。

有名人の人格権に関するインドでの判例

インドの裁判所は、AIの登場以前から、有名人が自らの人格のさまざまな側面を営利目的での不当な利用から保護する権利を認めており、このような判決が下されたのは今回が初めてではありません。

それでも、Naik Naik社副マネージングパートナーであるMadhu Gadodia氏が2024年のWIPO Conversationで説明したように、人格権は、インドでは比較的新しく登場してきた概念です。人格権の根拠は、コモンロー、著作権商標権、さらにはインド広告基準審議会 (ASCI) に求めなければなりませんでした。ASCIは、有名人の顔が、許諾なく物品の宣伝目的に使用されないよう保護しています。顔に劣らず有名人の特徴を成す声についても、同様の保護が与えられます。

数秒分の音声を入力するだけで、最大95%の精度でクローンすることができます。

人格権を認めた判例がいくつか存在しています。2010年のD.M. Entertainment対Baby Gift House事件では、被告側が販売する人形にインドの人気作曲家であり作詞家、歌手でもあるDaler Mehndi氏の肖像が使用されたばかりでなく、この人形が同氏の楽曲まで歌えるようにしたことが争点になりました。裁判では、営利目的で有名人のペルソナを不正使用することは、パブリシティ権の侵害、虚偽のエンドースメント (false endorsement)、および詐称通用 (passing off) に当たるとの判断が下されました。このように、パブリシティ権というのは、自身のアイデンティティ (人格的同一性) を営利目的で使用するか否かを自身で選択する固有の権利に由来するものなのです。

2022年のAmitabh Bachchan氏対Rajat Nagi事件では、伝説的な俳優Amitabh Bachchan氏の人格的特性が不適切に利用されたことに対してまで、法的保護が拡大されました。これにより、デリー高等裁判所から、初めてジョン・ドゥ命令 (John Doe order) が下されています。この件については、2024年のWIPO会合においてGadodia氏からも報告があったとおりです。ジョン・ドゥ命令というのは、人格権を保護するために、裁判所が相手を特定せず全世界と一般大衆に対して下す命令のことをいいます。たとえ現時点で被告が特定されていなくても、今後特定できた場合、あるいは侵害の事実が明るみに出た場合にも、自動適用されます。これには、不適切な利用として一般に知られているケースに加え、NFT (Non-Fungible Token: 代替不可能なトークン) やメタバースなどの将来的なメディアも含まれます。

人格権とパブリシティ権の保護を裁判所に求める場合、原告は、(1) 有名人としての地位を有していること、(2) 被告人による不正利用からの識別が可能であること、(3) かかる不正利用が営利目的によるものであること、の3点を主要な要素として証明しなければなりません。

2023年のAnil Kapoor氏対Simply Life India事件においてデリー高等裁判所が下した判断は、ベテラン俳優のAnil Kapoor氏が有する「エンドースメントの権利」は、事実上、同氏にとって「主要な生計手段」だというものでした。

したがって、いかなるアイテムであっても、そこに「有名人の顔またはペルソナの属性を描く」場合は、法的な承認を必要とします。

2024年のKaran Johar氏対Indian Pride Advisory社事件では、ボンベイ高等裁判所から、映画製作者のKaran Johar氏の名前とペルソナを営利目的で無断使用することを禁止する決定が下されています。

Arijit Singh氏の人格権がAIに勝利

Arijit Singh氏のケースにおいて、ボンベイ高等裁判所は、名前、声、写真、肖像など、同氏の人格属性は保護可能であり、これに関連する商品、ドメイン、デジタル資産を無断で作成することは違法であるとの判決を下しました。

さらにこの判決では、Singh氏の声、ボーカルのスタイルやテクニック、歌い方のアレンジや楽曲の解釈、歌手としての癖や歌い方、さらには同氏の署名も、人格権とパブリシティ権の範疇で保護し得るとの判断が下されました。

さらに裁判所は、AIツールを使用してSingh氏の声と肖像を再現することは、同氏が自分自身の人格を商業的に利用する独占的権利を侵害するだけでなく、名誉毀損または悪質な目的で使用された場合、同氏のキャリアを傷つける恐れがあると判断しました。

「このような形で肖像や声が技術的に悪用することが許されるならば、これらを管理して保護する個人の権利が侵害されることになります」

Singh氏の場合は、ボンベイ高等裁判所からAIツールプラットフォーム運営者を含む複数の事業者に対して、同氏の人格を営利目的で使用することを禁止する暫定的救済命令が下され、人格権を保護することができました。

人工知能を表現する、相互接続された青く光る線とドットで形成された人間の顔のデジタルイラスト。左側には、音声またはオーディオデータを示す音波のグラフィックがあります。背景には小さなデジタル四角形のグリッドが表示され、ハイテクで未来的なテーマを強調しています。
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AIボイスクローニングの仕組み

通常RVCと略記されるリアル・ボイスクローニングまたは検索ベースの (retrieval-based) ボイスクローニングは、既存の音声サンプルを基にユーザーが音声をクローンできるオープンソースのAIアルゴリズムです。JammableやTopMediaiなどは使いやすいツールですが、数秒分の音声を入力するだけで、最大95%の精度でクローンすることができます。このようなボイスクローニング・ツールを利用すれば、友人や恋人の声をクローンして、金銭を詐取する目的に悪用することもできるようになり、知的財産所有者と一般大衆の双方にとって、大きな脅威となります。

AIツールで新たな作品を生成するためにはデータで学習する必要がありますが、このような作品には、学習に使用したデータセットの属性が備わることになります。Arijit Singh氏対Codible Ventures社事件において、Singh氏側は、同氏のレパートリーから456曲を含むデータセットが無断でAIツールにアップロードされたと主張しました。ユーザーはこのようなAIツールを利用して、テキスト、話し方、音声録音、オーディオファイルをSingh氏の音声バージョンに変換することができました。

AIボイスクローニングの課題は、人格権と著作権保護の交点に位置しています。Singh氏のような歌手にとって、声は個人的な属性であると同時に、著作権で保護される作品の制作手段でもあるのです。AIツールの学習のためにアーティストの楽曲を無断で使用することは、そのアーティストを特徴づけるボーカル特性を抽出して複製することを意味します。このような行為は著作権侵害に該当します。

法律は、有名人だけでなく、すべての人に適用されなければなりません。なぜなら、各人は自分の人格とプライバシーを保護する権利を持っているからです

また、Singh氏のケースでは、被告は、同氏の人気と評判を利用して、訪問者を被告のホームページやAIツールに誘引していますが、これはSingh氏の人格権の乱用に当たる可能性があります。被告はさらに、Singh氏のキャラクターやアイデンティティを悪用した偽造の録音や録画の作成をインターネットユーザーに奨励する行為までも行っています。

裁判所は、「任意の声を有名人の声に、本人の承諾なく変換できるAIツールの利用を可能にすることは、当該有名人の人格権の侵害に当たる」と判断しました。また、有名人の声は、「個人的なアイデンティティと公的なペルソナを構成する重要な要素」であると認定しました。

ボンベイ高等裁判所のR.I. Chagla判事は、「このような形で個人の肖像や声を技術的に悪用することは、これらを管理し保護する個人の権利の侵害に当たるだけでなく、そのアイデンティティが営利を目的とした虚偽の利用に供されることを防止する個人の能力をも阻害する」と指摘しています。

裁判では、被告がSingh氏の同意を得ることなく、AIコンテンツの形で同氏の名前、声、肖像などを継続して使用することが容認されるとすれば、歌手としての同氏の生活とキャリアに深刻な経済的損害が及ぶ恐れがあるほか、悪意のある個人が不正な目的のためにそのようなツールを悪用する余地を残すことになると指摘されました。

この判決が画期的なのは、人格権や著作権といった既存の法的枠組みではこのような新しい課題に対処しきれないとして却下するのではなく、これらを適用する方法を模索した点にあります。テクノロジーは急速に進化していますが、個人のアイデンティティという原則と自分自身の表現を管理する権利とは、ともに基本原則として、その重要性が失われることはありません。

著者について

Dipak G. Parmar上席教授は、ムンバイ (インド) にあるCyber-IPRの創設者であり、知的財産弁護士、調停人、仲裁人でもあります。また、知的財産開発研究センター (CDIPR) 諮問委員会、在インドEU商工会議所の評議会メンバーも務めています。

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